月刊全労連・全労連新聞 編集部

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【手記】『戦犯処刑された叔父─加害の「廣島」を考える』 「広島」のもうひとつの側面。戦争犯罪を「命令された」ものとして免罪する向きもある。戦犯処刑者を肉親に持つ者として、それに「ほっとする」感情を否定はできない。しかし、それではその先のことを考えなくなってしまい、「私の戦争責任」が問われるのではないか 。 広島県労働者学習協議会  橋本 和正

 岸田内閣は2022年12月16日、閣議決定で「安保3文書」を改定した。「反撃能力(敵基地攻撃能力)保有」、その反撃(敵基地攻撃)は「日米が協力して対処していく」としていることも見逃せない。軍事費は5年間で43兆円もの大軍拡、27年度に軍事費(関連予算含め)国内総生産GDP)の2%にするという。5月に開催されたG7サミットでは、岸田文雄首相は「核兵器のない世界」を掲げながら、「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」を発表したが、その内容は「核抑止」に固執し、被爆者や市民の願いを踏みにじるものだった。


 戦争を起こさないための「抑止力」という考え方は、いざとなったら相手に恐怖を与える「攻撃力」とある。そのような「抑止力」で平和を作り出すことができるのか。日本の歴史は「戦争とは取り返しのできない被害を与える」ことを教えている。


はじめに


 私の叔父・橋本忠は1948年1月2日、クアラルンプールのプドゥー刑務所において、戦争犯罪者として処刑されている。28歳だった。


 私は小学生の頃、何度か祖父母や父親に連れられて、三瀧寺広島市西区三滝山)で開催される慰霊祭に行っていた。ゴールデンウィークの頃なので遠足気分で行った記憶がある。その慰霊祭とは、戦犯処刑され、あるいは刑期の途中で亡くなった広島県出身者を慰霊するものだった。


 毎年、1月2日には叔父や叔母が次々に我が家に来て、お盆の時よりも丁寧に仏壇の前で手を合わせる姿を見ていた。叔父・忠の祥月命日だと知ったのは、私が大人になってからである。父や叔父、叔母が叔父・忠を話題にすると、マラヤ、クアラルンプール、セレンバン、パリッティンギ、バハウあるいはシンガポールという地名が繰り返し出てくるので、その地名を子ども心に覚えてしまった。


 ある時、家族がそろってフランキー堺さんが主役の「私は貝になりたい」というテレビドラマを見たことがある。なぜかみんな黙ってじっと画面を見つめていた。


 祖父母や父や叔父・叔母は、叔父・忠が「戦争犯罪者」ということで一般の戦死者とは違う不名誉な影を背負い、周囲には多くを語らないまま戦後を生きていたのだろう。
 

 私は成長するにつれ、叔父・忠は戦犯処刑されたこと、それはマレー半島での出来事だと知るようになる。しかし、私は叔父・忠の戦争犯罪の詳細を知らないままに過ごしていた。


将校にあこがれていた叔父・忠

歩兵第11連隊制服姿の叔父・忠(撮影日不明)


 私の祖父母、両親は終戦まで、現在の韓国の全羅南道羅州郡金川面古洞里栄山浦(ヨンポ)に住んでいた。朝鮮が日本の植民地になった時代。私の祖父は大正の初めに、現地に入植し、広大な土地を手に入れ、農業経営をやっていた。


 現地で生まれた私の父が長男で、すぐ下の次男として叔父が生まれた(1919年6月生まれ)。祖父の「忠義」を尽くす人になれとの思いから「忠」と名付けられたようだ。叔父・橋本忠は、少年の頃から軍人・将校にあこがれていた。旧制・光州中学校(現地)を卒業すると職業軍人をめざし、陸軍の下士官を養成する熊本の教導校(資料はなく未確認)に進んだ。その課程を修了すると志願して、本籍地である広島の陸軍部隊に入営した。広島の郷土部隊・歩兵第11連隊第7中隊に所属し、中国本土や海南島仏印ベトナム)に派遣されたようだ。太平洋戦争開始時のマレー半島への上陸作戦(海軍の真珠湾攻撃よりも数時間早く開戦された)、その後のシンガポール攻略作戦に参加。シンガポール陥落直後に南方軍の新たな命令「マレー半島粛清命令」にもとづいて、1942年2月から3月にかけて、マレー半島ネグリセンビラン州に移動、警備隊として駐屯した。


廣島の郷土部隊


「歩兵第11連隊」


 広島城の堀の東側、中国放送本社(RCC)の南側、木立の中に、一つの石碑と石の門柱が立っている。歩兵第11連隊の碑とその連隊入口の門柱とされるモニュメントだ。旧陸軍歩兵第11連隊は、広島に司令部を置く第5師団の中心部隊であり、広島の郷土部隊である。石碑にはこの部隊が満州事変以来の対中国戦争において、中国大陸の各地にたびたび派遣され、太平洋戦争が始まった1941年12月8日には、マレー半島上陸作戦に参加したことなどが記されている。


 しかし、広島から派遣されたこの歩兵第11連隊がシンガポールを占領した後にマレー半島ネグリセンビラン州に治安粛清部隊として配備され、1942年3月から中国系住民(華僑)の粛清行動を繰り返していたという事実は、石碑には記されていないし、人々にはほとんど知られていない。


 ネグリセンビラン州での大きな住民虐殺事件として、イロンロン村(犠牲者1474人)、パリッティンギ村(犠牲者675人)、スンガイルイ村(この事件は8月、犠牲者368人)の事件が現地では知られている(表)。戦後イギリス軍によってこれらの事件について、戦犯裁判が行われ、被告はすべて歩兵第11連隊の関係者である。

 


スンガイルイ村の華僑虐殺事件


 叔父・忠が住民虐殺の首謀者とされたのがスンガイルイ村での事件だ。スンガイルイは、ネグリセンビラン州にあり、バハウからマレー鉄道東海岸線で約23マイル北、パハン州との県境から少し南にあり、当時そこには鉄道の駅があったという。駅といってもプラットホームはなく、駅の周辺に20軒ばかりの店とその周辺に住民の集落があったといわれている。スンガイルイ周辺ではタバコの生産が行われ、その取引のためと西にある金鉱山の入口の村として、中国系の住民が400人くらい住んでいた。

戦闘服姿の叔父・忠(1940年6月)

 

 ネグリセンビラン州の住民虐殺は、ほとんどが1942年3月に集中しているが、このスンガイルイ村事件は同年8月30日に起こった。3月頃から行われた第1次から第6次までの治安粛清が一段落した後でも、共産党軍」や「抗日分子」が行動を起こす、また、様々な事件が起きると日本軍が出動してその中では、住民に対する虐殺が行われる。そういう時期であった。


 日本軍はマレー系住民に警察の下請けとして自警団を組織させ、役人の代わりをさせるなどしていた。中国系住民とマレー系住民を敵対させるようにして、現地の住民を利用して住民を支配しようとした。


 スンガイルイ村の近くで、「共産党分子」が不穏な動きをしているとの情報が事件のひと月前頃から報告されていたらしい。そうした中で、自警団員となっていたマレー系住民の男が誘拐され殺害された、という通報がそのマレー系住民の家族から警察に、さらに日本軍警備隊(第7中隊)にもたらされた。


 少尉で小隊長の叔父がバハウから部隊を率いて、現地の警察官を伴ってスンガイルイ村に出動し、事件の捜査を行った。住民の証言などによると、日本軍の隊長は中国系住民を集めて尋問し、自警団の男を殺害した「犯人は出てこい」という演説を行った。捜査が終了しかけたころに、日本兵隊長が「中国人たちを片付けてしまいたい。彼らはみな共産主義者だ」と言ったという。同行していたタミル人警察署長が、「犯罪者は裁判に懸けないといけない」と抗議したにも関わらず、「責任は自分がとる」と言って、日本兵は中国系住民の男を数珠つなぎにして人目のつかない周辺の林の中に連れて行き、銃剣などで殺害した。女性や子どもたちは小屋のような住居に閉じ込め、外側から機関銃で撃ったのち、住居に火を放って焼き尽くしたという。


 事件後、マレー系住民が日本軍の許可を得てインド系労働者を使って遺体の処理・埋葬をおこない、368人が犠牲になったことが確認されたという。スンガイルイはこの住民虐殺によって、集落自体がなくなった。それだけ大変な事件であったという。


 叔父・忠は、本人の尋問証言からすると「1942年8月に、軍の命令により、スンガイルイにて抗日分子・共産党分子に対する掃討作戦を行った。以後には現地には行っていない。」しかし、その掃討作戦とは、スンガイルイ村の中国系住民多数を犠牲にする住民虐殺そのものだった。


日本占領下の中国系住民虐殺


 1942年2月、マレー半島上陸から2ヵ月余りで日本軍はシンガポールを占領した。2月19日、南方軍総司令長官寺内寿一大将(当時サイゴン)は命令を発し、その第1項は「旧英領馬来に於ける治安を迅速に回復し軍政を普遍せしめ以て国防重要資源の取得を容易ならしむると共に軍自活の途を確保す」とあった。


 これを受けて第25軍(司令官山下奉文中将)は21日、指揮下の各師団にマラヤ全域の治安粛清を命令し、第5師団は「ジョホール州、昭南島を除く馬来全域の治安粛正(ママ)に任じられた」。そして以下の命令を下した。

 

一 軍は馬来全域の治安を迅速に粛正(ママ)しつゝ次期作戦を準備す
近衛師団昭南島(昭南市を除く)の第十八師団はジョホール州の迅速なる治安粛清並びに戦場掃除に任ず 河村少将は依然現任務を続行す


二 師団(河村少将指揮下部隊欠)はジョホール州及昭南島を除く馬来全域の迅速なる治安粛清に任ず

 

 中国侵略戦争の拡大・泥沼化が対米、対英戦争へと発展していったことには間違いない。しかし、なぜ治安粛清の対象とされた抗日分子、共産党分子がマレー半島の中国系住民だったのだろうか。


 1931年満州事変、37年日華事変を経て、日本の中国侵略は本格化・拡大していった。これに対して、内戦状態にあった中国国民党中国共産党の「国共合作と抗日民族統一戦線」は急速に発展して、日本侵略に対し徹底抗戦していく合意が成立した。国民党軍と住民の中で、非正規軍として戦う中国共産党軍の両方への対応を強いられた日本軍は、相当な苦戦を強いられたに違いない。また、兵站能力が不足し、食料などを「現地調達(略取)」せざるを得ない日本軍だった。


 アメリカ・イギリスやソ連(当時)から中国への軍事物資援助も拡大する中で、東南アジアに移住していた中国系住民(華僑)も、母国への侵略に対して義援金を送り、軍事物資輸送に直接携わる人々(トラック運転手やトラック整備に携わり「回国機工」と呼ばれた)もいた。アメリカやイギリスからの軍事物資輸送ルートは「援蔣ルート」とも呼ばれた。


 日本軍も東南アジアの中国系住民による中国支援については、当然把握していたに違いない。また、日中戦争の長期化とともに、住民の中で活動する抗日勢力に悩まされ、過敏に反応する日本軍の姿がそこにある。


裁かれた戦争犯罪


 シンガポールマレー半島での住民虐殺について、イギリス軍は終戦を待たずに情報収集を始め、戦争犯罪人をリスト化し、終戦になれば直ちに戦争犯罪を裁けるよう準備した。そこは植民地の支配国・宗主国としての威信もあったといわれる。法曹資格をもった軍人が裁判官になり、検事役も法曹資格者が担い、被告には弁護士と通訳をつけて行われた。そのため、スタッフを整えて裁判を始めるには時間がかかったようだ。


 シンガポールでの裁判は46年1月21日から、叔父・忠が裁かれたクアラルンプールでの裁判は1月31日から、ラングーンでは3月22日、香港では3月28日、ラブアン(北ボルネオ)では4月8日と、戦争犯罪を裁く裁判は次々と開廷されていった。イギリスのアジアでの戦犯裁判は、シンガポール裁判の1946年1月21日に始まり、香港裁判の終了1948年12月20日までかかった。


 戦争犯罪の裁判は一審制で行われた。叔父の裁判は1947年10月21~29日、6回の公判が開かれ、同29日に有罪・死刑判決がなされ終わっている。その後、裁判記録をイギリス本国に送付し審査され、妥当と判断(叔父の場合、同12月17日)されれば刑が執行された。


 シンガポールでの取り扱い件数131、被告が465人、死刑判決が142人、死刑確認112人である。私の叔父が裁判を受けたクアラルンプールで取り扱いは39件、被告数が62人、死刑判決が20件で、死刑が確認されているのが18人とあり、この18人の中の1人が叔父の忠である。


 叔父の「スンガイルイ事件」の場合、バハウに駐屯し、1942年8月、マレー人の誘拐・殺害事件があり、誰が調査に行ったか、現地の人には叔父の名前と顔は知られていたと思われる。叔父・忠は1945年秋を待たず本籍地の広島県佐伯郡廿日市町(現廿日市市)に復員した。その後、若林開拓団(現北広島町吉坂)に入植していた時に逮捕され、東京・巣鴨刑務所を経て、クアラルンプールに送られて尋問を受け、調書が作成された。現地の証人調査もされたであろう。1947年10月に裁判を受け有罪が確定した。翌(1948)年の元旦に翌日の刑執行が告げられ、2日に処刑された。それが「スンガイルイ事件」の結末である。

 

叔父・忠の裁判記録(表紙)


 イギリス軍による戦争犯罪者に対する裁判の特徴は、現地においてそれぞれの住民殺害事件に直接関与した部隊の責任者が裁かれたことである。軍の上層部にいて命令をした司令官や作戦参謀たちは、裁かれてはいない。誰に本当の責任があるのか、ある意味、不十分な裁判と言えるだろう。しかし、住民の目の前で繰り返し行われた住民虐殺は、住民の告発と証言で十分裏付けされた事実である。


「偽装病院船」橘丸と第5師団の最期


 1942年12月から翌年1月にかけて、叔父・忠は部隊の移動に伴ってインドネシア方面にも行ったようだ。その後、イギリスやオーストラリア軍の反撃に備えて、豪北の島々に駐屯していた。米軍の反撃は太平洋側諸島からフィリピンに向けて行われたことや、日本軍の戦況悪化により、制海権を奪われ、移動手段も失って、叔父の部隊は豪北の島々に取り残され遊軍状態になった。


 終戦が迫った1945年8月3日、「病院船」橘丸がアメリカの駆逐艦によって拿捕された。「病院船」というのは偽装で、1562人の将兵が乗っていた。しかも小銃、弾薬等を隠して積んでいた。橘丸には第5師団の基幹部隊である第11連隊の第一、第二大隊の隊長以下全員、山口第42連隊の一個中隊が乗っていた。この中の1人に私の叔父・忠もいた。患者の名前もカルテも偽物で、患者の白衣(病衣)まで偽装して身に着けていた。日本軍の通信は傍受されていて、出港後直ちに追跡され、駆逐艦「コナー」に臨検を受けて、赤十字マークの箱に銃や銃弾が隠されており、「病院船」でないとされて、米軍の捕虜としてフィリピンで終戦を迎えた。この偽装「病院船」橘丸事件とともに、第5師団歩兵第11連隊は「最期」を迎えた。


 偽装「病院船」橘丸に積んであった第7中隊の陣中日誌など軍の公文書は、アメリカに押収された。

旧陸軍歩兵第11連隊第7中隊陣中日誌

 

 この陣中日誌などが1986年頃に日本に返還された。林博史さんの「華僑虐殺」(すずさわ書店・1992年)は、陣中日誌の記録と現地住民の証言と照合してまとめられたものである。同氏はイギリスの戦争裁判記録を調べ、「裁かれた戦争犯罪」(岩波書店・1998年)にまとめている。私は、同書の「スンガイルイの虐殺」(P.246)に「橋本少尉」の名前を見つけ、叔父・忠が関わった事件であることを初めて知った。


華人虐殺の地 マレーシア訪問 緊張の連続


 私は、何としても現地マレーシアを訪問してみたいと考え林博史氏に相談したところ、「アジア・フォーラム横浜」の「東南アジア戦跡ツアー」を紹介された。そこで「住民虐殺」から70年の節目となる2012年夏の「アジア・フォーラム横浜」のツアーに参加することにした。


 「アジア・フォーラム横浜」には、スンガイルイ事件で刑死した橋本忠の甥であることを明らかにして、ツアーに参加した。ツアーの案内役をされていた高嶋伸欣氏には、驚きの参加者であったかもしれない。ツアー行程に私の個人的な想いを組み込んでいただき、高嶋伸欣氏と現地のツアーガイドCC Yongさん、そしてツアー参加の皆さんにはご迷惑をおかけした。


 高嶋氏から「現地の人々も世代交代しているし、心配するようなことはありませんよ」と聞かされた。しかし、戦犯・橋本忠の「甥」である私は、ツアーの出発時から緊張していた。8月12日(現地初日)のネグリセンビラン州センダヤンでの合同追悼式、余朗朗村虐殺の追悼碑がある知知での追悼式では緊張の連続で、特に16日、スンガイルイ村現地での林金發さん(スンガイルイ村中国系住民元村長)たちとの出会い、事件現場周辺の視察をし、ムヒディンさん(スンガイルイ村事件目撃者・スンガイルイ村マレー系住民元村長)宅を訪問し、事件の目撃証言を聞くときは緊張の極みだった。みなさんのおかげで何とかその場での振る舞いができていたように思う。

 

スンガイルイ村住民虐殺追悼碑(紀念碑)


 また、同日に訪ねたパリッティンギ(港尾村)の碑を訪問する時も緊張していた。パリッティンギの碑には、「日本皇軍橋本少尉領隊就屠殺長大成人四佰弐拾六名、及子孩未成人二百四十九名、計數六百七十五條無辜生命」と記されていると聞いていたからである。このパリッティンギとその周辺各地での虐殺事件では、第7中隊の中隊長やその下の小隊長が関わったとして戦犯処刑されている。「橋本少尉」と名前が紀念碑に刻まれているからには、叔父も何らかの関わりがあったのでないか。パリッティンギの追悼碑に記された「橋本少尉領隊」の文言は確認できたが、それ以上のことは明らかにできなかった。


 2012年8月12日、マレーシア・ネグリセンビラン州の「日本占領時華人犠牲者合同慰霊祭」に参加し、高嶋伸欣氏に促されて挨拶をした。「私は、スンガイルイ村事件で死刑となった橋本忠の甥で橋本和正と申します。叔父・橋本忠はスンガイルイ村事件の責任を問われて死刑になりました。叔父は死刑という形で責任をとったけれども、戦後に生まれた私たちの責任は再び戦争を起こさないこと、日本軍によって犠牲になり多大な被害にあった、と訴えている『人々の声に応える責任』がある。日本で、郷土部隊が編成された広島で住民虐殺の歴史事実が伝えられていないので、ぜひ広く伝えていきたい」と話した。


あらためて加害の廣島を考える


 戦後、広島は被爆を「原点」として、核兵器廃絶・恒久平和を希求するヒロシマとして広がっている。被爆の実相を伝え「ヒロシマのこころ」を世界に広げていくことは、とても重要である


 一方、被爆以前の広島もきちんと伝えていく必要がある。日清戦争のちょうどそのとき、広島まで鉄道が開通していたことから、広島が出撃基地を担い、天皇を迎えて大本営が置かれ、帝国議会を開いたこの広島。そこから、世界に戦争の惨禍をもたらす軍都の歴史を担ったこと、その一端を郷土部隊である第5師団・歩兵第11連隊が担った多大な「加害の歴史」を考えるべきだ。


 戦後78年が経過しようとするいま、中国やアジアの各地から日本の加害や非人道的な事実が数多く明らかにされている。歴史の事実から目をそらし、歪めようとする人物や勢力もいるが、私たちは、その一つひとつに目をむけ、現地からの声に耳を傾けるべきだ。日本の加害の事実に向き合って、再び戦争は起こさせないための行動をする、それが私の戦争責任だと思っている。


 叔父を含め戦争犯罪者として処刑された者を「戦争犠牲者」の1人とする考え方がある。戦争犯罪を「命令された」ものとして、免罪する向きもある。わたしも戦犯処刑者を肉親に持つ者としてそのような考え方に「ほっとする」感情を否定するものではない


 しかし、それではその先のことを考えなくなってしまい、「私の戦争責任」が問われるように思う。私は事実をきちんと受け止め、事実に向き合って生きたいと思う。


 英語で「責任」に当たる言葉は、「responsibility」である。この言葉は「response」=応答とか、反応とかを語源としているそうだ。それならば、私は戦争の被害にあった多くのアジアの人々の声に「response=応答」して認識していきたいと思う。

 

参考文献
高嶋伸欣林博史編集 村上育造訳 「マラヤの日本軍」 青木書店(1989年)
林博史 「華僑虐殺」 すずさわ書店(1992年)
林博史 「裁かれた戦争犯罪」 岩波書店(1998年)
共著 ブックレット「軍都」廣島 広島県労働者学習協議会(2011年)
同増補版(2022年)

 

( 月刊全労連2023年9月号掲載 )

 

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