月刊全労連・全労連新聞 編集部

主に全労連の月刊誌「月刊全労連」、月刊紙「全労連新聞」の記事を紹介していきます。

多くの男性に読んでほしい。「ケアレス・マン」では許されない。労働組合での活動を週35時間に制限し、家事・育児との両立をはかる山形県労連事務局長の率直な感想と葛藤、そして模索。

ジェンダー平等と労働組合の新しい活動スタイルの模索
山形県労連事務局長 佐藤 完治

 

 山形県労連では、育児のため週35時間しか活動できない事務局長(筆者)を選出し、その中で様々な模索を続けてきた。それはたまたま、全労連ジェンダー平等の方針を太く打ち出すのとほぼ機を同じくしており、山形県労連におるジェンダー平等について考えるきっかけのひとつになってきた。本稿ではその経緯を概観しながら、労組専従を含む組合幹部役員においてジェンダー平等を貫くことに伴う課題、それはまた、当事者の要求実現エネルギーに依拠したボトムアップ型の運動へのシフトが避けられないものでもあることを試論しようとするものであり、2022年5月19日に行われた全労連ジェンダー平等学習会での特別報告に加筆したものである。

 

子育てしながら事務局長の任に

 

 私は現在54歳だ。山形県労連の事務局員になってから29年が経過し、2017年9月から事務局長になった。その直前に、長い不妊治療の末の妻の妊娠がわかった。いろいろ議論して、結局私が子育てをしながら事務局長の任に当たることを前提に、同年の役員選挙に立候補し信任された。その後、2018年の3月に息子が誕生し、同年11月から19年の1月までは、妻と交代して育児休暇も取得している


 妻は山形市近郊の民医連の診療所で医療事務をしている。この診療所の事務職員は3人で、うち1人は非正規の方。正規職員である妻は、週のうち2日から3日は残業になり、帰宅が7時過ぎになることもしばしばだ。月のうち2、3回は半日の土曜出勤がある。若干の持病があり、仕事のない土日や祝日は少し多めの休養が必要となる。コロナ禍にあって、医療従事者である妻の労働をサポートすることを期待されている、と考えざるを得ない。

 

ケアレス・マンでは許されない

 

 私の息子は現在4歳5ヵ月だ。保育園に行っている時間以外は、大人の目と手がまだまだ必要である。その役割の大半は、以上のような状況からして、必然的に私に課されることになる。いわゆる「ケアレス・マン」でいることも、事務局長だからといって時間無限定に活動することも、いずれもはじめから許されなかった


 こうした状況は事務局長に立候補する前から分かっていたので、私の勤務・活動は週35時間程度にとどめること、それを超える業務量により課題に遅延が生じることは容認してもらわざるを得ないことを、役員検討委員会で予め確認し、役員選挙があった定期大会では代議員にもその事情を報告した。実際に様々な課題が実行できなかったり、遅れたりしている。2ヵ月に1回程度の幹事会の他、原則毎週1回の事務局会議で当面の課題とその優先順位、専従議長や非専従ボランティアの役員、パート事務局員などの役割分担を確認して業務を進めた。さらに、子どもの発熱やコロナによる保育園の登園自粛要請などに即応して、臨機応変に優先順位や役割分担を変える、あるいは特定の課題や会議を取りやめるなどのシフトをしてきた。


 フルタイムで、ある程度の残業や休日労働も含めて活動できる事務局長の後任を探すことは、山形の現状では容易ではない。それどころか、加盟組織からの組合費の納入人員も減少が続き、役員の高齢化も進んでいる。

 

一人の百歩より百人の一歩

 

 今後は親族の介護や、私自身の加齢に伴う体力の低下に応じた活動時間のさらなる調整も求められる可能性がある。事務局長が週35時間しか活動できないことを前提とした組織的努力が、ジェンダー平等について検討する以前に必要とされてきたのだ。


 その基礎は「一人の百歩より百人の一歩」を貫くことであり、最低賃金近傍の賃金で働くシングルマザーなどの当事者を組織化するための努力や、幹事会内での役割分担、地域労連の活性化や空白地域での新規結成、日々の事務局運営の工夫が主な内容である。そして実はこれらの努力に、労働組合におけるジェンダー平等を考えるヒントが内包されているかもしれないと後で気付くところとなる。仮に上述のような私の家族の事情がなかったとしても、そもそもジェンダー平等の観点からは、私が事務局長の任務を制限してでも一定の家族的責任を果たすべきとの結論に至っていたはずだが、率直に言って、当初その発想はあいまいだったことは、告白しておくべきであろう。

 

趣味も含めた「自分の時間」は、子育てに向かうのに必要不可欠

 

 少なくとも私にとって、子育てにおいては、子どもと関わる時間はもちろん、ともすると単調になりがちな子どもとの膨大な時間の中で、子どもの微妙な変化に気付き、そこに子どもの成長を感じ取ることができるような知識や、そうした知識を得るための時間、そうした変化・成長を喜びとして味わう時間的ゆとり、保育士やいわゆるママ友・パパ友など他の保護者との交流が必要だった。さらに言えば、識者が「空気のように大切」とも述べている、親自身のための、趣味の時間も含む「自分の時間」も、子育てに向かうエネルギーを回復するため、子どもに対してイライラしたりせず、常にその発達段階に即した向き合い方・接し方ができるようにするために必要不可欠だと思われる。
 

 子どもの発達は保障されるべき子どもの権利である。社会や親の状況(経済力はもちろん、時間的ゆとりも含めて)など、偶然に左右されてもよいものではない。子どもは、忙しくて自分に構ってくれない親でも、その背中を見て育つ場合もあるだろうが、おそらくそこにも個人差はあるだろう。子どもの発達を保障する義務は、憲法上、国とともに親などの保護者にも課されていると考えられる。ただし義務だけではつらくなる。私たちには、何とか子育てを“こなす”だけではなく、子育てを喜びと感じる権利があるのではないか?その根拠もまた、憲法に求めることができるのではないかと考える。


 そして、こうした「自分の時間」もまた、子育てにも必要な権利として当然に請求可能なもの(国に対して、使用者に対して、さらには所属労組に対して)であり、労組専従者もその例外ではない、ということをしっかり内面化する必要がある。しかし、例えば私が子どもの迎えのため、まだ終わっていない翌日の街頭行動の準備を誰かに任せて16:30に退勤し、子どもと公園で砂遊びをしているとき、誰かが配布するビラを印刷して折ってくれている。私が風邪をひいた息子とエアコンの効いた部屋で過ごしているとき、仲間が猛暑の中で街頭行動に奮闘している。そうしたことを考えると、今でも時々葛藤を迫られる。だが、私が私自身の権利をないがしろにしたままで、自己責任を内面化させられた労働者に対する「権利の自覚と行使を」といった語りに説得力が備わるだろうか。少なくとも「自分が無理すれば何とかなる」という発想に留まることは、「一人の百歩より百人の一歩」の進展を遅らせはしないか。おそらくこの葛藤を引き受け続けることもまた、私の務めなのではないかと思う。


 週末を子どもと一緒に過ごすことは、貴重で幸福な時間でもあるが、完全な「自分の時間」、「自分の休み時間」にはならない。どの曜日よりも月曜日が一番疲れている。
 ジョン・レノンのように子どもが成長するまで仕事を休む条件はないし、SEKAI NO OWARISaoriのように「セカオワハウス」で仲間と子育てを共有するような、ある種の素敵な「共助」の展望も今のところない。公助としての「保育の充実」以外に方向性は思い当たらない。しかしだからこそ、もっと厳しい条件下にある保護者や、もっと保護者を助けて充実した保育をしたいと考えてくれている保育者と、要求を共有できるはずなのである。


 少なくない青年が、「子どもを持つのは贅沢」と考えさせられているとの報告もある。そこにも、まず徹底的に寄り添う必要がある。

 

当事者のエネルギーに依拠し土台をつくること

 

 労働組合ジェンダー平等にとりくむということ、特にそれを、労組専従者を含む幹部役員などにまで徹底させようとすることは、以上のような問題を伴い、あるいは労働運動の歴史の一部を積み直すくらい大きな課題であるが、しかしそれは避けられない課題なのではないかと思われる。そのための道は、全労連の「ゆにきゃん」などの手法も駆使して、個別具体的な要求を実現しようとする当事者のエネルギーに依拠した、ボトムアップ型の活動スタイルにシフトしていくことなのではと思う。


 ここには、仕事と家族的責任の「両立」を目指す条件があるかは疑わしい。いうならば、むしろ家族的責任を基礎にして、そこにある要求や課題を原動力としながら、運動と組織(労働組合の「仕事」)を再構築していく以外に道はないように思える。


 その過程で、もしかすると運動や組織は一時的にせよ、さらに後退するかもしれない。私たちの組織は、時にご家族をも犠牲にしながら、まさに自己犠牲の限りをつくして先輩たちが築いてこられたものだと思う。その歴史のすべてを否定するのは正しいこととは考えられない。


 しかし、山形県労連について言えば、そうした自己犠牲モデルによる運動を続ける条件は、もはや残されていない。どのみち、しばらく大きな前進が難しいとするならば、その過程にあってもしっかりと土台をつくる、次の飛躍を準備する、その決意、覚悟を固めることこそが、このタイミングで事務局長になった私の最大の役割なのではと思う。


 当事者の潜在力(エネルギー)の大きさを学ばせられた出来事が2つあった。1つめは山形最賃アクションプランの中で出会ったあるシングルマザーの姿。仕事と育児だけで超多忙。「日常、自分の時間は取れない」と断言しているが、それでも子育てに関する行政機関への要請や組合が提起した行動に積極的で「何かできることがあったらさせて欲しい」と言う。


 2つめ。2021年12月自治体キャラバン2022山形市要請には、福祉保育労のある保育園の分会から4人が参加した。独自に資料を準備して保育士の配置基準や処遇の改善の緊急の必要性を論証し「子ども30人に保育士1人で安全にお散歩に行けると思いますか?」と毅然と市長に迫った前進的な回答が一切引き出せなかったにも関わらず、当該分会の組合員からはその後、「また訴え方を考え準備して要求・交渉したい」など、諦めるどころかますます頑張りたいという趣旨の声も寄せられた。県労連は3月24日、山形地域労連とともに「保育士配置基準等改善運動」の文書を福祉保育労に示した。7月28日の同分会で、これに取り組むことが決議されるまで、自治体キャラバン要請から約8ヵ月。その間、保育士の欠員(園独自の基準に対する)にコロナ禍による困難も重なり、同分会の組合員は多忙を極め、分会内での議論や地本との意思疎通にも困難をきたしたが、それでも議論を続けて意思統一を勝ち取ったこと自体が極めて貴重といわねばならない。


 私見であるが、これらの例で示されているのは、要求が現実の労働や生活から切り離しえない切実なものであれば、そもそも要求を諦めるなどということは考えられず、何とか時間を作ろうとする力が湧いてくるということ、前進につながらなかった行動によっても力や団結が強まる、ということなのではないか。私には「週35時間しかない」境遇を逆手に取り、切実な要求はあるけれども時間はあまりない、というこうした人たちの日常を理解しつつ、会議の持ち方やSNSの効果的な活用など、こうした人たちが参加しやすい活動スタイルを積極的に提起し、あるいは議論していくことが求められていると思う。

 

保育士の労働条件改善と組織化をすすめ楽しく活動を

 

 山形県労連は、上述の保育士配置基準等改善運動の実施に向けて必要な協議を継続している。また9月の第34回定期大会では、「みんなで地域の運動を盛り上げ誰もが入りたくなる労働組合に」のスローガンで、地域労連のあるところでもないところでも、議論して重点要求・課題を絞り込み、その実現のため、加盟組織の組合員が力を合わせて組合員拡大に取り組めるよう方針の補強を目指す。合わせて、幹事会メンバーの半分、大会代議員の半分を女性にする目標で取り組む方向も示されている。いずれも、楽しみながら取り組めるよう、多くの方々の力を借りて大きな運動にしたいと思っている。

 

( 月刊全労連2022年10月号掲載 )

 

※月刊全労連のご購読のお申し込みは「学習の友社」までお問い合わせをお願い致します。

定価:550円( 本体500円 ) 電話:03-5842-5611 fax:03-5842-5620 e-mail:zen@gakusyu.gr.jp