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【論文】新自由主義とフェミニズムの関係性とその展望についての論文をご紹介します。コロナ禍のしわ寄せが女性に集中する現在、改めてその根本原因に迫るヒントになるかもしれません。

新自由主義ジェンダー平等運動~高まるジェンダー平等労働運動の役割~

愛知淑徳大学名誉教授 石田 好江

 

《はじめに》

 近年のジェンダー平等を取りまく状況をみると、#MeTooイクメンなど変化も感じられる一面もあるが、現実には従来の男性中心的な職場慣行も、家庭内での性役割分業もあまり変わっていない。そのこと以上に気になるのは、とりわけ若い女性たちの間に、そうした現状を変えようというジェンダー平等のような運動に対し(左翼運動に対しても同様であるが)「時代遅れ」「抑圧的(上から目線)」という空気感がつくられ、退けられていることである。その空気感は「社会は変えられない・変わらない」という諦めや無力感、さらには「自分に問題があるのだからしかたない」という自己責任感へと繋がっている。


 こうした現状を生み出している原因は多様に考えられるであろうが、そのひとつは新自由主義の強靭さを運動の側が甘く見ていたことにあるのではないかというのが本稿の問題意識である。新自由主義改革を単なる規制改革だと考えていなかっただろうか。新自由主義のレトリックで称揚される主体的な選択、能力開発といったものに、女性の自立や自己決定、エンパワーメントを掲げるジェンダー平等運動が取り込まれたりはしなかっただろうか。


 本稿では新自由主義ジェンダー平等の関係を検証した上で、新自由主義に絡めとられないためにジェンダー平等運動に何が求められるのかを考える。とくにその中で、ジェンダー平等運動における経済的公正・再配分のたたかいの弱さという反省に立ち、文化的公正のたたかいを経済的公正・再配分のたたかいに統合させる運動の必要性と、その担い手であるジェンダー平等労働運動の役割の重要性について述べてみたい。

 

1 新局面の新自由主義

(1)新自由主義の多面性

 

 1970年代、失業率とインフレ率が同時に上昇するスタグフレーションが世界的規模で進行し、税収が急落、財政支出が増大した結果、各国で財政危機が発生した。新自由主義は財政危機によってケインズ主義的福祉国家政策が機能しなくなったところに、市場の自由を再び確立しようと登場したものである。一般的には、規制緩和・競争・フレキシビリティというキーワードで表されるような市場の論理の拡大、民営化などの公機能の縮小と変質、国家と個人の間にある中間集団の崩壊に伴い、社会的連帯の喪失と個人化の進展、とりわけ、市場の論理の拡大にとって妨げとなる労働組合は弱体化させられる、と理解されてきた。しかし、新自由主義論の第一人者であるデヴィッド・ハーヴェイはこうした理解だけでは十分に新自由主義を捉えきれていないと、以下のような点を指摘する。


 第1は、新自由主義は「資本蓄積のための条件を再構築し、経済エリートの権力を回復するための政治的……プロジェクト」(ハーヴェイ2005=2007:32)であると、新自由主義市場原理主義という理論ではなく政治的な実践であると捉える。また、市場か国家かではなく、新自由主義をエリート権力の回復・維持のために必要ならば国家介入も厭わないものであるとしている。


 第2は、新自由主義への転換を可能にするためには、民衆の同意形成が重要な役割を果たしたとする点である。新自由主義は「われわれの多くが世界を解釈し生活し理解する常識(コモンセンス)に一体化してしまうほど、思考様式に深く浸透している」(ハーヴェイ2005=2007:11)とハーヴェイが述べるように、国家の介入や規制政策を個人の自由という価値観の対立物と認識させるような巧妙な言説が同意調達に使われた。1968年の世界的規模で展開した学生運動が、個人的自由を求めていたことで新自由主義に取り込まれた代表的な事例であると説明する。


 第3は、新自由主義は自身が発生させる諸矛盾に対応するために新保守主義と手を結ぶとする指摘である。社会的連帯が破壊され個人がバラバラになり不安感や無力感が高まる、あるいは犯罪などの反社会的行為増加への危惧が増す中で、道徳やナショナリズムなどの新保守主義や権威的ポピュリズムが復活するという。


 新自由主義とはこれまでの私たちの理解とは異なり、政治的なプロジェクトであり、したがって国家介入も厭わないものであることがわかる。また、ここまで新自由主義が受け入れられた理由は、私たちがそれを受容可能とするような同意形成が行われたこととともに、新保守主義とも手を結び私たちの思考や行動に深く浸透していることにある。

 

(2)2008年の「市場の失敗」以降も生き延びる新自由主義の強靭性

 

 2008年に起こっリーマンショックという金融危機は、まさに「市場の失敗」、新自由主義の敗北のはずであった。リーマンショックの対策としてとられた公的資金の注入などの政府による強力な市場介入を機に、新自由主義の終わりが始まるものと考えられた。しかし、事実はそうはならなかった新自由主義は、一方でケインズ主義的な政策を実施しつつ新自由主義的政策も執拗に追求するという形態を取りながらしたたかに生き延びている


 それは日本においても確認できる。国家予算規模についてみると、8年連続で最大を更新しており、新自由主義が目指す「小さな政府」とは程遠い状態となっている(2020年度の国家予算は102兆6580億円と過去最大の規模である)。その一方で、所得税法人税の引き下げ消費税の引き上げによって所得再分配機能は大きく後退させている。また、直近の2019年6月に発表された「規制改革推進に関わる第5次答申」では、副業・兼業の促進、テレワークの促進、副業の日雇派遣の緩和などさらなる規制緩和を推進する新自由主義政策が躊躇なく大胆に進められている。


 ハーヴェイの新自由主義分析きわめて優れたものであるが、2008年以降もしたたかに生き延びている新自由主義の強靭性の分析として不十分であると指摘しているのが酒井隆史である。酒井はフーコーとそれ以降の政治社会論を踏まえ、新自由主義の統治性を分析する。その上で、ハーヴェイのアプローチは「経済的イデオロギーとしてネオリベラリズムをとらえる傾向があり、……政治的合理性としてのネオリベラリズムという視点が希薄」(酒井2019:518)であると指摘し、その視点を「日常的リベラリズム」と表現する。私たちがいまのこの無慈悲な競争原理の導入や富裕層優遇の税制を受け入れ、諦めてしまっているのは、「ネオリベラリズムの感性をその統治術の一環としての主体化を通して形成されてきた」(酒井2019:524)ことによるものである。それほどまでに私たちの生活全体、私たちの存在そのものに新自由主義が深く浸透しているとみる。この状態を生み出した契機を酒井は「日常的リベラリズム」と名付けたのである。
 

 酒井は、なかでも、競争の役割に注目し、現代の社会は市場競争における競争という契機をすべての中枢に据えた社会であるとみる。競争にさらされること、能力を高めることが健全化を促すとみなされる社会、それによって絶えず能力評価にさらされ、監視される社会に私たちは生きている。新自由主義政策は至るところに競争環境を人為的に構築し、その競争を保証するよう作動するのである。「日常的リベラリズム」は、一方では自由で主体的な選択、能力開発、「自己責任によってみずからの生を運営する」(酒井2019:527)という形で作用する側面と、競争にさらされる不安感が他者への従属や無力感(諦め)を強めるという形で作用するという側面の両面を持っているのである。


 酒井の指摘でもうひとつ重要なのは、リベラリズムはデモクラシーとは相性が悪いが、独裁・権威主義とは親和性が高いという指摘である。デモクラシーは市場をかく乱する危険な理念であるのに対して、権威主義的国家がリベラリズムの原理をもって運営することは合理性をもっており、「いまわたしたちが経験しているのは、まさにこのネオリベラリズム権威主義的要素が加速しながら拡大していることです。トランプ、ボルソナーロ、エルドアン習近平プーチン、安倍、大阪維新の会と、世界的な極右の擡頭とネオリベラリズムの政策の強化はまったく矛盾していません」(酒井2019:551)と述べる。

 

2 ジェンダー平等と新自由主義


(1)新自由主義と日本のジェンダー平等政策の共犯性

 

 新自由主義ジェンダー平等との関係をめぐっては既に多くの議論が交わされてきている。そこでは、概ね、新自由主義政策によって女性はより厳しい状況に追い込まれるとともに、女性の間の格差が拡大したということが共通の認識になっている。また、日本のジェンダー平等政策と新自由主義との関係については、上野千鶴子は、女性労働力活用を目的にしているという意味で日本のジェンダー平等政策は新自由主義改革の下で展開されたものであると述べた上で、これまでになかった多様な選択肢を増やしたという点では女性にとってチャンスを与える効果はあったが、それは性差別の姿を変えさせただけのものであったとみる(上野2013:230~254)。


 日本のジェンダー平等政策が新自由主義的なものであったことは事実のようであるが、ここではさらに、ハーヴェイや酒井の分析を参考にしながら、日本におけるジェンダー平等政策のもつ新自由主義的性格とそこに使われている新自由主義のレトリックを確認してみたい。


 日本の新自由主義は欧米より遅れ、小泉内閣時代(2000年代)から本格化したといわれているが、少なくともジェンダー領域のところでは1985年の男女雇用機会均等法(以下、均等法)と労働者派遣法の成立新自由主義改革のスタートであろう。新自由主義にとってはそのことが資本に合理的かどうかが重要であるため、男女を一元的に区別することはしないし、身体性も問題にしない。したがって、均等法が男女に機会だけを均等に与えることは新自由主義にとって何ら問題ない男性仕様の働き方は変えずに、女性たちがそれに適用できるかどうかまでは問わない、結果は自己責任というまさに新自由主義的な法律である。均等法に合わせて導入されたコース別人事制度の下で、昇進・昇格の閉ざされた一般職コースを選択したのは個人の自由な意思によるものであり、そこには差別性はないと差別が正当化され見えなくなった。その後の男女賃金差別裁判において、それ以前は認められていた差別性が均等法を理由に認められなくなったことは、この法律の新自由主義的性格をよく表している。


 均等法から15年を隔てて1999年男女共同参画社会基本法が施行された。この法律は国や地方自治体の施策の指針を示すための法律という性格上、男女の差別的な取り扱いを具体的に是正することよりも、法律の前文に示されているように「男女が対等な社会の構成員であること」「男女が互いにその人権を尊重し合うこと」「性別にかかわりなく、その個性と能力を十分に発揮できること」の啓発に重きが置かれた。各自治体がそのために作成したパンフレットには「キラキラ輝く個性」「自分らしく」「エンパワーメント」という文字が躍った。啓発の結果、この法律が「女性は自分の意思と責任で能力を高め、それを発揮して自分らしく主体的に生きることができる」という空気・規範を作り出すことに一役買ったことは事実である。しかし、性差別の是正は後景に退き、見えにくくなった。これが個人の自由を重視する新自由主義のレトリックであることは、ハーヴェイや酒井の分析からも明らかである。


 さらに、2015年には女性活躍推進法が制定された。この法律がアベノミクスの成長戦略に盛り込まれた「女性の活躍推進」に基づいて制定されたものであるということだけで、新自由主義政策であることは明白である。つまり、人口減少・労働力不足という国家的大問題を解決するために女性の労働力「活用」しようというのである。既に述べたように新自由主義は個人の自由を根源的に重視することから男女を一元的に区別することはない。性別にかかわらず個々の能力を発揮してもらうことは経営効率を高めることになるわけで、有能な女性の活用は必定だからである。

 

(2)ジェンダー平等労働運動の役割の重要性

 

 ジェンダー平等の運動が、女性の労働市場への進出(もっと働けるようにしてほしい)を目標のひとつにしてきたことは事実だが、女性を単に働かせようという新自由主義ジェンダー平等政策とは似て非なるものである。だからこそ、均等法、男女共同参画社会基本法、女性活躍推進法が制定される度に、ジェンダー平等の実現を目指す陣営は制定に反対し修正を迫る運動を展開してきた。均等法に対しては、女性保護規定の撤廃反対や機会の平等だけではジェンダー平等は実現できないことを主張してきた。男女共同参画社会基本法については、平等ではなく「参画」という用語を使うことのいかがわしさに異議申し立てをしてきたし、女性活躍推進法については、同一価値労働同一賃金原則の適用や長時間労働等の日本的雇用慣行の是正と併せて実施することの必要性を訴えてきた。しかしながら、こうした運動が大きく広がることはなく、成果をあげられていないことは事実である。


 新自由主義的なジェンダー平等政策に取り込まれてしまったのは、ジェンダー平等運動自体に原因があると、ジェンダー平等運動(フェミニズム)と新自由主義の親和性・共犯関係を指摘しているのが、ナンシー・フレイザーである。フレイザーの主張は『再配分か承認か?』(フレイザー/ホネット2003=2012)以来、何度も論じられているものであるが、その主張が簡潔にまとめられた文章が「The Guardian」のサイトに寄稿されている。「フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか」(フレイザー:2013=2019)という刺激的なタイトルのその論考の中で、フレイザーは以下の3点でフェミニズム新自由主義に貢献したと指摘している。


 第1は、フェミニズムの家族賃金(夫の賃金で家族を養うというモデル)批判である。フェミニズムが公認した「2人稼ぎ手モデル」は、結果的に女性を低賃金で不安定な労働市場に引き出すとともに、男性の賃金引き下げを許すことになったと指摘し、新自由主義は「フェミニズムの家族賃金批判を搾取の正当化のために利用することで、女性の解放の夢を資本蓄積のエンジンに結びつけている」と述べる。第2は、フェミニズム政治経済批判よりも文化的な性差別批判ジェンダーアイデンティティ・ポリティックス=女性の奪われた価値を取り戻し正当に認められることをめざす承認の政治)に傾注したことで経済的不公正を犠牲にすることになったという点である。第3は、女性のためのNGOを例に挙げ、市民をエンパワーメントし、国家権力を民主化しようという展望がいまや、市場化と国家の削減を正当化するために利用されているという指摘である。

 

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原文:How feminism became capitalism's handmaiden - and how to reclaim it | Nancy Fraser | The Guardian

日本語訳が掲載されたBLOG:ナンシー・フレイザー「フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか」 : おきく's第3波フェミニズム (exblog.jp)


 フレイザーの主張は日本にぴったりと当てはまる。「自分らしく輝く個性」といった新自由主義的レトリックで称揚された女性の主体性エンパワーメントが、ジェンダー平等運動のアイデンティティ・ポリティックスと符合したことから、新自由主義に取り込まれ、性差別、ジェンダーヒエラルキーを変革する力が弱まってしまったという日本の状況はこの説明の通りである。


 フレイザーはそこから、新自由主義との危険な結合を断ち切りジェンダー平等運動(フェミニズム)を再生するシナリオを3点にわたって提示する。第1は、賃労働を脱中心化し、ケア労働などの賃金化されない活動を尊重する生活様式にすること、第2は、文化的公正のたたかいを経済的公正のたたかいに統合させること、第3は、参加民主主義の重視である。その中で注目すべきは、文化的公正のたたかい(性差別に関わるたたかい)を経済的公正のたたかい(再分配のたたかい)に統合させる必要という主張である。「文化的公正のたたかいを経済的公正のたたかいに統合させる」ことの具体的内容について、フレイザーは今回紹介したペーパーには書いていないし、本稿もこれまでの「再配分か承認か」の論争に踏み込むつもりはない。ここでは、男女間の経済格差のように文化的公正と経済的公正が交錯する問題、さらには階級的な再配分(経済的公正)の問題に取り組むこと、それを強化することがいま、ジェンダー平等の運動にも求められているという点に耳を傾けたい。したがって、文化的公正のたたかいが階級的なたたかいに還元されないということはいうまでもない。ハーヴェイが指摘したように、新自由主義は経済エリートの権力を回復するための、あるいは富の多くを自分のところに集中させている経済エリートの権力維持のための政治経済的実践である。その新自由主義に立ち向かうためには、ジェンダー平等運動において政治経済マターである経済的公正・富の再配分へのたたかいの重要性や階級的観点をもつことは不可欠である。そう考えると、「文化的公正のたたかいを経済的公正・再分配のたたかいに統合させる運動の必要という主張はきわめて説得的である。


 では、その中心的な担い手には誰がなりうるかというと、上記の理由から労働運動以外にはないジェンダー平等労働運動である。ジェンダー平等の運動の中で労働運動の役割が高まっているということである。ここで「女性労働」とせず、「ジェンダー平等労働」としたのは、ジェンダー平等運動の中で労働問題を主題化させるだけでなく、労働運動の中にジェンダー平等を主題化させるためである。これまで、女性労働運動は男性中心・男性モデルでつくられた労働環境や社会を真に性中立的なものに変え経済的不公正を改善しようと運動を展開してきたが、男性モデルで作られた職場や社会を性に中立的なものに変えるのは女性だけの問題ではない男性たちが自分の問題にしない限りこの問題は解決できない。労働運動の中で女性の問題が周縁化されてきたという側面があることは否めない。ジェンダー平等の問題を女性の問題としてゲットー化せず、労働運動の中心に据えることが重要なのである。それは男女の対立を深めることではなく、労働者全体の経済的な公正の実現につながることとして捉えることで可能になる。


 ジェンダー平等は男性の既得権を奪うもの、労働者に与えられたパイを男女で奪い合うことになると理解している男性たちも多い。確かに、ジェンダー平等の運動に経済的公正・富の再配分の観点が欠けていたことが、「労働者に与えられたパイを男女で奪い合う」とか「労働運動に男女間の対立を持ち込むことになり危険だ」という認識を生んでいたことは否定できない。既に述べたように、そこを乗り越えようというのが本稿で提案した「文化的公正のたたかいを経済的公正・再配分のたたかいに統合させるジェンダー平等労働運動」である。

 

3 いま、求められるジェンダー平等労働運動とは


(1)女性の低い経済力の問題を運動の中心的課題に

 

 文化的公正のたたかいを経済的公正・再配分のたたかいに統合させる運動としてジェンダー平等労働運動を提案したが、その中でも中心的課題は、文化的公正と経済的公正・再配分の問題が交錯する男女間の経済格差の問題、すなわち女性の経済力の低さ、女性の貧困の問題である。新自由主義がもたらした最も特徴的なものは不公正な経済格差である。しかし、その影響は男女に同じようにもたらされたわけではない。性差別、ジェンダーヒエラルキーを組み込んだ労働市場では女性たちのところに強く影響が表れるからである。


 まずは、男女間の経済格差を確認してみよう。世界経済フォーラムが2019年12月に発表した報告書において、日本のジェンダー・ギャップが153ヵ国中121位と過去最低の順位になったことが話題になった。「経済活動の参加・機会」「教育の到達度」「健康と寿命」「政治活動への参加・権限」の4要素のうち日本においては、とりわけ経済活動と政治活動のところでジェンダー格差が大きいことが指摘されている。


 その経済活動の指標のひとつに男女の年間所得格差があるが、日本においては女性の所得は男性の54%でしかなく、順位は108位である。因みに、総合ランキング2位のノルウェーのこの値は79%フィンランド、ドイツ、フランス、アメリなども70%前後で、先進国の中でも際立って低い。日本の元データは国税庁の『民間給与実態統計調査』のもので、課税・非課税にかかわらず1年間に何らかの所得のあった人を対象に調べたものであるが、同じデータで所得分布を作成してみると(図1)、女性の6割300万円未満のところに集中していることがわかる(200万円未満は約4割)。

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 女性の経済力・稼得力の格差こそが、労働市場における性差別、ジェンダーヒエラルキーを反映したものである。子どもを持つ女性が排除される(男女が同等にケア責任を負うことを前提にした労働市場や職場になっていない)、非正規でしか働けない(女性にとって正社員への入り口は新卒のところだけ)、低賃金の職種のところに女性が配置される、低賃金で性労働力が確保できないところに女性が募集される、女性向け職種と呼ばれるところは不安定・低賃金、同じ職種・同一労働でも女性の方が低賃金(責任や期待値の違いといった理由で区別される)、昇進・昇格からの排除等々、男女の経済格差の性差別要因を挙げたらきりがない。これらの構造的な要因を解決しない限り女性の経済力は上がらない。同時に、この構造を変えることは、不公正な能力主義や競争原理に縛られて働く男性にとっても働きやすい労働環境をつくることにつながっている。


 新自由主義改革は一般的に女性の間の経済的格差を広げると言われている。図2はその点を確認するために、女性労働者の増加がどういう業種で起こってきたのか(高賃金業種で拡大したのか、低賃金業種で拡大したのか)を見たものである。2001年から2018年の中間年である2010年の賃金構造基本統計調査から、女性が多く働く農林水産・製造業を除く広義のサービス業30業種を所定内給与金額で、4グループに分けた。そのグループの労働者数(短時間労働者を除く一般労働者:フルタイムで働く非正規労働者を含む)の経年変化を、2001年を100として示したものである。上位グループには金融保険業、情報サービス業、技術・専門サービス業など、中位上グループには医療、卸売業など、中位下グループには福祉介護業、衣料品等小売業など、下位グループには飲食料小売業、飲食業、その他事業サービスなどが含まれる。

 

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 この20年間の変化をみると、情報サービスや教育・学習支援業のところでの増加が反映され、上位グループが1.3倍に上昇している。一方、下の方は、下位グループが低下、中位下グループが1.6倍に上昇している。中位下グループの大半は福祉介護業での増大である。これをどう見るかである。新自由主義改革は上位グループで働く女性を増やすと言われているが果たしてそう言えるであろうか。確かに上位グループのところで伸びているが、それが必ずしも高賃金職かどうかはわからない情報通信業で働く女性の35%、技術・専門職で働く女性の40%は非正規雇用である(2018年『労働力調査』)。さらに重要なのは中位下グループの上昇である。なかでもその増加が医療・福祉分野の階層制の最底辺におかれている介護労働者のところで生じているという点である。深刻な介護労働者不足が生じているにもかかわらず介護報酬は上がらない。それを支えているのが、「女性は介護職に向いている」「介護は家事の延長であり、誰でもできる仕事」という言説である。なぜ女性なのか、なぜ介護職は低賃金なのかはそこに原因がある。


 新自由主義改革の女性への影響をみる限り、男女の経済格差の改善は遅々として進まず(2010年から2018年までに男女の所得格差は0.7ポイント改善されただけ)、かといって女性間の格差が生じるほど女性の一定層が上位グループに進出したかというとそれもなく、女性労働市場は非正規労働者の増加と賃金水準の低い層の増加に見られるように全体として劣化しているといわざるを得ない。


(2)個別性に寄り添う活動の強化を

 

 先に紹介したフレイザーは、新自由主義下でジェンダー平等運動(フェミニズム)が弱体化したのは、ひとつは経済的公正への取り組みを怠ったこと、もうひとつはフェミニズムのもつアイデンティティ・ポリティックスが新自主主義のレトリックに取り込まれたことによるものと指摘した。


 筆者はその指摘の前者を重視し、ジェンダー平等運動における労働運動の役割の重要性を述べた。それに対し、菊地夏野(2019)はフレイザーの指摘の後者に注目し、女性たちの間に生まれている主体的に能力やスキルを向上させようとする「女子力」現象を、フェミニズムの二律背反性に付け入ることによって生み出された「ネオリベラル・ジェンダー秩序」であると捉える。この状況は、酒井が名付けた新自由主義の規範が私たちの生活全体、存在そのものにまで深く浸透する「日常的リベラリズム」によって生まれている状況と同じものである。新自由主義に対抗できる運動をつくっていくためにはこの視点も無視できない。


 菊地も酒井もそのために必要なこととして社会的連帯とデモクラシーの必要を述べるが、それ以上の具体的な記述はない。確かに、新自由主義、とりわけ現在の権威主義新自由主義が破壊したものは社会的連帯とデモクラシーであることから、この2つを取り戻すことが求められていることは間違いない。


 これについて十分な具体的方策を提案できるほどの力量を筆者は持ち合わせていないが、1点だけ提案するとすれば、個別性や個人のリアリティに寄り添った活動を強化することではないだろうか。既にどっぷりと新自由主義の規範・空気に浸かっている者、とりわけ新自由主義改革の下で育ってきた若者たちは、優勝劣敗の原則や自己責任を内面化し、孤立している。自己肯定感が低下している者に、集団的な対応は抑圧にしか感じられないし、闘争のスローガンも彼らには無力である。とくに、女性たちは男女を一元的に区別しない新自由主義のレトリックの下で「女性は自分の意思で能力を高め、その能力を発揮できる主体的な存在である」と称揚される一方で、職場や結婚生活の中で根深い女性差別に遭遇し、男性以上に生き難さを感じている。


 そういう者たちのところに社会的連帯やデモクラシーを取り戻すためには、個人の個別の問題に耳を傾け、対話し、その人の意思を尊重しながらその問題を解決するような活動を重視していかなければならないのではなかろうか。新自由主義が前提とする個人(近代的個人像)は、自己決定・自己責任に表されるように他者に依存しない、自立した個人という特徴を有しているが、その裏返しとしてその行動には自己防衛的、排他的な性格が表出する。個人の生き方や思考様式にまで浸透する新自由主義に対抗するためには、このような自己防衛的、排他的な個人像からいかに脱却するかが求められる。その手掛かりは、個人のところに降りていく活動、つまり、異質な他者や多様なニーズをもつ他者との関係性を重視する活動にある。こうした活動を通じてつくられる新たな個人こそが、社会的連帯やデモクラシーの主体となりうるのである。また、そのためには従来の活動・運動のスタイルを修正することも必要であろう。従未の労働組合運動や革新運動にしばしみられるような権威主義的、ヒエラルキー的な活動スタイルは、個人に対して抑圧的に作用するだけでなく、女性、若者、非正規労働者など言説資源の乏しい者にとっては敬遠の要因になる。新自由主義の新局面に立ち向かうためには活動・運動のあり方も変革を求められているということである。

 

《おわりに》

 

 ジェンダー平等の労働運動と名称は変えたが、取り組む内容は従来の女性労働運動と大きくは変わらない。女性の貧困問題は女性労働運動の中心的な課題であったし、労働相談にも力を入れてきた。したがってここでは、女性労働運動の中身を変えるというより新自由主義の強靭性を認識した上で、ジェンダー平等労働運動の果たす役割を再確認し、運動をバージョンアップしていくことの必要性を強調した。


 今回のテーマを考えるきっかけになったのは、2019年12月、はたらく女性の神奈川県集会で、『82年生まれ、キム・ジヨン』という本を題材に講演するよう依頼されたことであった。この小説には30歳代前半の主人公の女性が、自己実現への強い思いと韓国社会の根強い性差別の間で苦悩する様子が描かれており、韓国はもとより、日本でも女性たちの間で話題になった。韓国は1997年のIMF危機の後、急激な新自主主義改革が実施され、競争の激化、雇用の非正規化が進んだ新自由主義改革の影響は男性以上に女性たちに打撃を与えており、その結果は子どもの出生率が0.98(低いといわれている日本でも1.42)というとんでもない数字に如実に表れている。この本を読んだ多くの日本の若い女性たちが「キム・ジヨンは私だ」と言った。他人事では済まされないところに私たちは既に立っているのである。その意味でも新自由主義に対抗するための運動を構築することは急務である。

 

参考文献
上野千鶴子(2013)『女たちのサバイバル作戦』文春新書
菊地夏野(2019)『日本のポストフェミニズム 「女子力」とネオリベラリズム』大月書店
酒井隆史(2019)『完全版 自由論 現在性の系譜学』河出文庫
ハーヴェイ・デヴィッド(2007)『新自由主義 その歴史的展開と現在』渡辺治監訳、作品社(David Harvey, A Brief History of Neoliberalism, Oxford University Press,2005)
フレイザー・ナンシー(2013=2019)「フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか」菊地夏野訳『早稲田文学』2019年冬号
フレイザー/ホネット(2012)『再配分か承認か? 政治・哲学論争』加藤泰史監訳、法政大学出版局(Nancy Fraser/Axel Honneth, UMVERTEILUNG ODER
ANERKENNUNG? , Suhkamp Verlag, 2003)

 
いしだ よしえ 愛知淑徳大学名誉教授。2018年3月に定年退職し現職。女性労働問題研究会前代表。東海ジェンダー研究所理事。専攻:社会政策学。近著:『社会福祉ジェンダー』(共著 ミネルヴァ書房 2015)、「公共性の再定義と生活ガバナンス」(『愛知淑徳大学論集 交流文化学部篇』6号 2017)、「生活ガバナンスによるまちづくり」(『生活経営学研究』NO.55 2020 3月)

 

( 月刊全労連2020年6月号掲載 )

 

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